1978~81年
高校演劇界に旋風!
厚木高校演劇部で、横内 作・演出『山椒魚だぞ!』上演。同級の岡本宣也(後の岡森諦)と1年後輩の山地克明(後の六角精児)が出演。79年 全国高等学校演劇協議会に関東代表として出場。優秀賞と創作脚本賞を受賞。規定時間を4分オーバーした為、最優秀には届かず。1981年 神奈川の高校演劇のエースたち(横内、岡本、六角、杉山ら)で、模様劇場を旗揚げ。『切符の暮らし』(81)
1982~83年
82年「善人会議」を結成。
劇団のネーミングはアングラに挫けた反省から、あえて軟弱路線を行くために、Baby Face(善人)を名乗る。大学の友人たちがテニスやスキーに興じるように、ボクらは楽しくお芝居をやって、ちゃんと卒業しようねと約束した。そのヤワな態度が祟ってか、『優しいといえば僕らはいつもわかりあえた』の初演は、3回だけの公演なのに台風18号の直撃を受ける。総観客数は355人。
– 公演 –
『優しいといえば僕らはいつもわかりあえた』(82)(83) 『冬のコンサート -優しさを持て余した、僕たちは』(83)『The Story of Hardboiled The Parrot(鸚鵡)』(83)
1984~85年
初めて劇評がテアトロに載る。
自分から入りたいと電話をかけてきた初の劇団員・中原三千代がデビュー。
– 公演 –
『たとえばオアシスに降る雪のように』(84)『ノータリンベイビーズ・ノーリターン-1984年のイージーライダー遁走記』(84)『家庭の悲劇』(85/現・花組芝居座長、加納幸和 客演)『四谷怪談 -鶴屋南北より』(85 /加納幸和)
1986年
初期の集大成的作品を発表。
哀愁の新聞勧誘員・田山ツトムを六角が演じた『夜曲 -放火魔ツトムの優しい夜』、茅野イサムの俳優デビュー作『まほうつかいのでし』など初期・善人会議の集大成的作品を次々と発表する。
– 公演 –
『夜曲 -放火魔ツトムの優しい夜』(86)『まほうつかいのでし』(86)
1987年
夢に見た、紀伊國屋ホールで。
若手劇団の登竜門と言われていた紀伊國屋ホールで『夜曲 -放火魔ツトムの優しい夜』を公演。黒百合役の杉山は、初日通信大賞・助演男優賞に。雑誌テアトロに1年間で3作品の劇評が掲載。
– 公演 –
『優しいといえば僕らは いつもわかりあえた』(87)『夜曲 -放火魔ツトムの優しい夜』(87)『鸚鵡とカナリア』(87)『曲がり角の悲劇』(87)
1988年~89年
初めてのツアー公演へ。
88年『夜曲 -放火魔ツトムの優しい夜』で初のツアー公演。同年 故中村勘九郎、故川谷拓三らが出演した話題作『きらら浮世伝』の脚本を横内が担当。横内の本格的な劇作生活がスタート。岡森・六角・中原が、この大舞台に立つ。
– 公演 –
有馬自由デビュー『新羅生門』(88)(89)『夜曲 -放火魔ツトムの優しい夜』(88)『ヨークシャーたちの空飛ぶ会議』(89)、伴美奈子デビュー作『ジプシー 千の輪の切り株の上の物語』(89)
– 横内の仕事 –
『曲がり角の悲劇』(新水社)『夜曲』(角川書店)と戯曲本を続けて上梓。
1990年~91年
悲願の実現が続き …
NHK芸術劇場で『フォーティブラス』が放送。90年 岡森が映画『超高層ハンティング』に主演。また、つかこうへい事務所『熱海殺人事件』で高校時代からの悲願 木村伝兵衛役を演じる。 横内は二十一世紀歌舞伎組『雪之丞変化2001年』の脚本担当、演出家・市川猿之助と初仕事。91年、有馬自由が新劇団協議会『橋ものがたり』、伴美奈子はシアターコクーンミュージカル『もっと泣いてよフラッパー』に出演。
– 公演 –
『フォーティブラス』(90)『新羅生門』(90)『まほうつかいのでし』(90)『愚者には見えないラ・マンチャの王様の裸』(91)『ジプシー 千の輪の切り株の上の物語』(91)
– 横内の仕事 –
『女殺油地獄』(90)『雪之丞変化2001年』(90) 三島由紀夫の近代能楽『道成寺』(90/嶋田久作)『きらら浮世伝』(91)
1992年
第36回岸田戯曲賞受賞。
横内、第36回岸田戯曲賞を『愚者には見えないラ・マンチャの王様の裸』で受賞。90年にセゾン劇場に書き下ろした戯曲『女殺油地獄』を扉座用に改訂した『女殺桜地獄』は、ダメ出し親父の異名をとる故三木のり平先生に珍しく手放しで誉めらる。
– 公演 –
『怪談・贋皿屋敷』(92)『新羅生門』(92)『ジプシー 千の輪の切り株の上の物語』(92)『女殺桜地獄』(92)
– 横内の仕事 –
『陽だまりの樹』(93/中井貴一・段田安則)『ドラゴンクエスト』(93/SMAP)
1993年
劇団扉座の誕生。
悪人ぶるアングラへのアンチテーゼとして名乗った善人だったが、アングラが消えてゆき、敢えて善人を名乗ることに意味が持てなくなり、劇団名変更を決意。扉座の由来は、横内が感銘を受けた映画『ラスト・エンペラー』のジョン・ローン演じる溥儀の叫び「OPEN THE DOOR!」から。劇団公認後援会「ドアクラブ」発足。
– 公演 –
『愚者には見えないラ・マンチャの王様の裸』(93)『うたかたの城』(93)『新羅生門』(93)『夜曲 -放火魔ツトムの優しい夜』(93)
– 横内の仕事 –
『スーパー歌舞伎・八犬伝』(93)『魔女の宅急便』(93)
1994年~95年
進化していく扉座。
電気・音響を一切使わず、ロウソク30本と生の効果音だけの『お伽の棺』が、難しい系の演劇評論家から評価を得る。また、稽古場で即興エチュードを重ね、作品を創っていく『アインシュタインの子供たち』を公演。この時期の実験的な作品は、劇団の貴重な財産となる。
– 公演 –
『新羅生門』『ジプシー』連続公演(94)『お伽の棺』(94)『アインシュタインの子供たち』(94)『新羅生門』(95)、NHK衛星放送で舞台中継された、山中崇史デビュー作『曲がり角の悲劇』(95)
– 横内の仕事 –
『モダンボーイズ』(94/木村拓哉)『ザ・近松』(94/沢田研二)『フォーティブラス -オリジナルスマイル』(95/草なぎ剛)『陽だまりの樹』(95)『怪談・贋皿屋敷』(95/香取慎吾)
1996年~97年
有限会社 扉座設立。杉山、倒れる。
96年 錦糸町の倉庫を劇場に大改造(現・すみだパークスタジオ)して『夢の海賊』を上演。藤間紫、筒井道隆、宮本裕子らが参加。同年 有限会社・扉座設立。97年 飯田橋に事務所移転。杉山良一、クモ膜下出血で倒れるが命をとりとめる。劇団養成所の第1期入団試験を行う。受験者は82人、うち22人合格。
– 公演 –
『夢の海賊』(96)『お伽の棺』(96) 文化庁 創作劇奨励公演『三好家の引っ越し』(96) 『稽古場のおすそわけ (1)(2)』(97)『ドラキュラ白書』(97) 厚木高校時代を書いた『ホテルカリフォルニア -私戯曲・県立厚木高校物語』(97)
– 横内の仕事 –
『夜曲 -放火魔ツトムの優しい夜』(96/稲垣吾郎)『スーパー歌舞伎カグヤ』(96)(97)『魔女の宅急便』(96)『怪談・贋皿屋敷』(97/香取慎吾)『カルメンと呼ばれた女』(97)
1998年~99年
奇跡の復活、劇団史上最大の公演。
98年 杉山が『三好家の引っ越し』で舞台に復活。99年 二十面相役に近藤正臣氏をむかえ『アゲイン -怪人二十一面相の優しい夜』を、厚木シアタープロジェクト第1回公演、のち各地を巡回。近藤氏には、芝居創りへの真摯な姿勢とともに、カッコイイとはどういうことか、劇団員一同しみじみと教えられる。
– 公演 –
『無邪鬼』(98)『三好家の引っ越し』(98) 研究生卒業公演『LOVE LOVE LOVE』(98)『アゲイン -怪人二十一面相の優しい夜』(99)
– 横内の仕事 –
二十一世紀歌舞伎組『龍神伝』(98)『陽だまりの樹』(98/宮沢りえ)『リボンの騎士 -県立鷲尾高校演劇部奮闘記』(98/井ノ原快彦)『ザ近松』(99)『スーパー歌舞伎・新三国志』(99)
2000年~
現在へと続く… こちら