事務所で(2004.11.29)
久しぶりに事務所へ。 愛・地球博の中の愛知県館の中の、地球タイヘン大講演会の打ち合わせ。これまた久しぶりにノリさんと作業。 石坂とガンにも手伝ってもらって、台本の細部をつめる。 それにしても、愛・地球博 だぜ。 愛知でやる博覧会なので、アイチ・キューハクなんだね。すばらしいネーミングでしょ。 しかし、それでは きゅーはく って何よ? 急迫、窮迫、九泊。打ち出してみたらこんなとこであった。 ちょっと失敗だったかな。 まあ、やることに決まって、すでに長久手では大建設も進行中で、わしも先日、行ってこの目でしかと見てきたのである。 もう後戻りはできまい。 私は自分の粛々と仕事を進めるのであった。 その仕事が、 地球タイヘン大講演会 なのである。 その名の通り講演会なんである。今回の万博の中でたぶんもっとも地味でシブい出し物であろう。年老いた博士が一人出てきて、ただ地球環境を憂える二十分の演説を延々と聞かせるだけのものだ。 ただし、それを半年の会期中、三千数百回続ける。そこに意義があるんである。 なんちゅうーか。 よくわからんだろ? 博覧会ってのは、もっとオモロイことやるもんだと思うだろ? 今まではそうであった。或いは、よそのとこでは今もそうかもしれない。しかし我々は違うのである。 今や、楽しんでる場合じゃない。こうしてる間にも温暖化は進み、人類は破滅への道を歩いているんである。 ひたすら真面目に世界に対して警鐘を鳴らすんである。 にしても、そんなのに、わしがどうして関わっているのか。 ただの講演なら、わしの台本も演出もいらんだろう。 まあ、そこが今回のテーマだね。 そのうち、いろいろ分かってくるだろう。 今はまだつまんなそうでいいんだ。
その合間に、先日、沖縄と九州だけで放送された、開会式製作の模様を撮ったドキュメンタリーを見た。ノリさんもガンもいたのでね。 五月のオーディションから本番の様子、その舞台裏まで徹底的に追っかけた本格的なドキュメントである。 前にこの半分の寸法のモノが放送されていたのが、今回晴れて倍に膨らまされて放送されたのであった。 何しろ、いろんなとこから大勢の人が集まってたから、それぞれに背景のドラマがある上に、半年がかりの稽古の間にも、さまざまな出来事が起きたからね。それをよく追いかけて撮って、まとめてある。 特に、奥本吏菜ちゃんていう高校生の成長の様子。挫折と再生。生まれ変わり。 彼女は踊りが上手くて、将来はミュージカル女優になりたい、つて子で、素人の中では一際目立ってはいた。けれど、この素人集団には、もう一人、とび抜けた高校生ダンサーがいたのである。 何の因果か、その子もミュージカル志望でね。 五月のオーディションの後の日記でも、私がすでに名を揚げて書いた杉山さくらちゃんて子である。 開会式の中のある大役を、この二人が争い、結局、さくらが選ばれたのであるがな。それをカメラは実に克明に追っかけていたのである。 しかし別に最初から、二人が争う局面が予想された訳ではないんだよ。放送局とそんなこと打ち合わせたこともない。 ディレクターが勝手に追っかけていたんだよ。 ところが、まるで演出してやったみたいに雌雄を決するオーディションが開かれることになった。ラッキィ池田さんが、女の子は飛梅組から選ぶと決意したことで、突然そうなったんである。最初はそこにはプロのダンサーを呼ぶつもりだったんだ。 それが二人の一騎打ちっぽくなった。何しろ、二人とも高校生だしね。 そのドラマにやらせは一切ないんだ。本当に神様の配役でそうなっただけ。 けれど、だからこそ、ずしりと胸に響く。その場に居合わせたというか、その場を用意したチョー本人の私自身にとってもさ。 選ばれた者の高揚、選ばれなかった者の悔しさ、悲しみ。 こっちは、舞台創りに必死で、そんなことにイチイチ構ってられない、ってのが正直なとこだったんだが、カメラは映してたんだよな。そのすべてを。 ジーンと来たね。 可哀想。でも仕方ない。人生にそういうことはある。けれどそれで終わりじゃない。まだ人生は続くんだ。立ち上がれ、そこから何かを学び、歯を食いしばって笑え。 実際、吏菜ちゃんは、何日かかけて必死に笑顔を取り戻すのだよ。それまでの自分をぶち壊して、新しい自分に生まれ変わってさ。 スバラシイ。 ともかく良いドキュメンタリーであった。全国の人に見てほしいね。できれば、本番の舞台中継とセットでね。 特に扉座のファンにもさ。私らが東京を留守にしてる間、何をやっとったのか、分かって頂くためにもさ。 決して遊んでた訳でないことがようく分かると思う。 それにしてもこのディレクター、優秀だよ、と思ったわけ。よくぞ、吏菜を追っかけてた。もし、さくらだけ追ってたら、このドラマは撮れなかったからね。吏菜から入って、やがてそこに、さくらという強力なライバル、たちはだかる大きな壁が出現する。そのストーリィが秀逸だ。 撮影の時は、なんか邪魔くせえな、って感じで。実際、高木に、邪魔だよ、どけ、とか怒鳴られたりもしてた。 ごめんねえ。 こんなに立派な仕事してくれてたんだねえ。 実はそんな気持ちで、小倉の時、呼び出してお食事したりしたのであった。ディレクターの磯部クンは今、北九州の勤務なのである。 聞けば早稲田のずっと後輩なのであった。 ハンズの菊池社長と、私と、その磯部クンと、間に神田紅師匠を挟んで、早稲田ラインでやっとったってことが、判明したのであった。全員、早稲田なんだよ。 って、実は私はただ居ただけの学生だったんだが。 さて、明日は研究所。 その後、お待たせしました、ドアクラブ会報、扉座通信のための年末座談会。昨年は金沢の料亭旅館で、蟹を食いつつ行われたが、今年は、韓流ということで、ソウルで焼き肉を食いつつ行うんだそうである。 たかシの仕切だ。 だが、たぶん焼き肉代は私が出すんであろう。 ソウル行きは各自で、現地集合である。明洞のスタバの前で待ち合わせだ。
そうだ。 昨日はグローブ座に、イノッチの芝居を見に行った。イギリスの芝居を真面目にやってた。すっかり舞台俳優であったな。良い芝居を見たって感じ。俺にもこういう仕事やらせてよ、だね。 大谷亮介さんもご出演。すでに 一月の 劇場の神様 の稽古に入ってるらしい。六角や伴、山田まりやも出る舞台。 久しぶりにガッチリした演劇を見て、モロな演劇人たちに会って、忘れていた、劇場魂に火が付いたぜ。
気志團(2004.11.28)
故あってギグに参加する。 東京ドーム。その存在はかなり前から知ってたけど、参加は初めてである。 綾小路翔は素晴らしいエンターテナーであった。 伝説を創るぞと宣言して、ちゃんとその作業に取りかかる。アンコール4度。もう終わりかと思ってからの1時間半。全部で四時間半以上の公演である。 プライドかと思ったぞ。 まさに格闘技であった。 まさかまさかを本当にして、人の記憶に深く残像を刻み込む。計算があってのことか、時分の花の神がかりか。いずれにせよ、今、ここだけの奇跡を見た。そんな気にさせるショウであった。その実力をしかと見たぞ。
それにしても、驚くべきは明星真由美である。気志團のマネージャーなんだが、今日はすっごい衣裳を付けて2曲歌った。 何でマネージャーが歌い踊るのか。 訳はわからんが、理屈抜きに、馬鹿馬鹿しく、面白い。 しかし実はこの人、元は舞台女優なのである。私の書いた芝居にも出ていたのである。 トニセンの東京サンダンスという芝居。 四年前の初演の舞台である。直太朗も出てた舞台。思えば、もはや伝説の舞台だね。そんな二人が競演していたんだ。 それをやってる頃に、気志團にはまっていると言っていた。まだ本当に一握りの人しか知らなかった頃だと思う。 それで、女優を辞めて、気志團に身を捧げた。 ケツコウ、売れていたのである。その時は、たぶん気志團より有名だったくらいじゃないだろうか。 何でまた、そんなことすんのか。 大人しく女優業を続けた方がいいんじゃないの。 誰もがそう思ったはず。 でも、好きなことを貫徹した。 そんで今日、マネージャーになった明星が、なぜか東京ドームで歌い踊ってしまった訳だ。 ある意味ドラマよりも劇的な見せ物。 にしてもね、こうなるなんて、誰が想像し得たか。 これぞ夢見る力だと思ったね。 好きなことに飛び込む勇気。 自分を信じる能力。 そのすべてに拍手だ。
研究所(2004.11.24)
久しぶりに錦糸町へ。 ラブ3に取りかからなくてはならない。いつもなら、ある程度準備が進んでいる頃なのに、まだほとんどカタチになっているものがない。少しヤバイ。 11時から3時頃まで、私が福岡に行ってる間に用意されたものを見る。 しかしあまり感心せず。 やり直しを命じて帰る。
その後、飯田橋~新宿へと打ち合わせの三軒ハシゴ。全部来年以降の仕事について。 そっちもそろそろ決めてかないといかんのだが、何というか、カラダが動かない。自分の仕事なのに、何だか傍観者のようにいろいろ説明を聞いている。 たぶん今の私には休みが必要だね、と自分に言ってみた。 はい、その通りです、と自分で返事。
とりあえず全部終わって、 中村屋のカレーを赤星と二人で食って帰る。 つな八に入ろうと思ったら満員だった。そんで中村屋。東京の正しいオヤジちょいすであろう。 けれど、 もはや仕事を終えると、奴と語り合う話題もなし。 今年はもう、何もしないでよーね。 そうしましょーね。 とそれだけ何度も確認し合う。 とはいえ、やんなきゃいかんノルマはさまざまあんだがな。 そういえば、事務所で山中に会った。 チョー久しぶりである。 ドアクラブのことで田中と打ち合わせていたらしい。 クラブはまったく放置状態だったからね。扉座通信も出してないし。東京では扉座は消えていたもんな。 たかシは、今年も年末に何かやるんで、よろしくお願いします、と言っておった。 こっちはそんなことより、久しぶりの山中の顔が可笑しくて、見とれていた。 結局、年末に何をやるのかはよく知らない。 ま、そのうち計画書が出てくるだろう。
言葉(2004.11.23)
最愛の人を失ったダンサーの踊りを見に行った。 こんなふうに言葉にしてしまうと、身も蓋もない感じだけど。そしてたぶん、これではまったく言い尽くせていないけれど、深い説明はいらないことだから、敢えて陳腐な記述にしておく。
ダンサーの心の傷を慮った、というよりも、きっと私自身が何かを探しに行きたくなったのだと思う。言葉か、イメージか。とにかく今の欠落感を埋めてくれる何モノか。 作家という免罪符を使って、見物に行くのである。ある意味、残酷なショウを。傷心のダンサーの踊りぶりを。 作家の取材は、人の心の中にも平気で土足で踏み入るものだ。そしてそれを悪いとも思わない。 極めてエゴイスティックだけど、それが性であり、宿命である。ただし、その姿勢を自分にも向けること。むしろ、最も鋭く己の臓腑をえぐり取ること。それがルールだ。 それはともかく、そんな恥知らずの作家の好奇心なんか吹き飛ばして、ダンサーは力強く、踊っていた。 個の哀しみとか、苦しみとか、そんなものを微塵も感じさせず、ひたすらに表現すべき舞踊の不思議の世界を生き抜いていた。 ずっと前から、何も変わらず、そこに踊り続けていた人であるかの如く。舞台に素足を吸い付かせて。舞台の板をガッシと爪先で掴んで放さず。 結論を言えば、そこで私は何の言葉もイメージも得ることはなかった。 ただ、見つめたモノは、厳然たる『生』。それだけであった。 彼は死に、彼女は生きている。 その鮮烈なるコントラスト。 最愛の者の死を乗り越えて、肉体を輝かせて生きなければならない。 その残酷さ。 けれど、そうして生きている肉体の美しさ、愛おしさ。 死を哀れみ、哀しみに同化するすることではなく、冷酷なまでに死の空虚を暴き、死の孤独を浮き彫りにすることで奏でられるレクイエムがそこにあった。 誰よりも、最愛の者を失ったその人が最も残酷に死を蔑み、生を称賛しているのだ。 その潔さ、壮絶なる闘い。 涙の代わりに全身から迸る汗、汗、汗…… そして荒い呼吸。死に向かうのではなく、生き抜くために、繰り返される呼気と吸気。 そこにあるのは圧倒的な生の闘いと勝利である。 もはや意味はいらない。 我々は生きている。 どうしようもなく、生きている。 ならば……
死を想いつつ、生を語る。それも力強く。 それが生者の勤めなのだ。たぶん。 言葉は見つからなかったけど、励まされた気がした。最も哀しい気持ちでいるはずの人から。全身全霊を賭けた表現のチカラによって……
明日は久しぶりに『深夜劇場へようこそ』の録り。 津嘉山正種さんと、翻訳家の松岡和子さんがゲスト。 森光子さんの「桜の園」と三国連太郎さんの「ドレッサー」二本とも成熟した大人たちの仕事。昨日と今日で、じっくりと見た。地味だけど見飽きない。見ていて、ひたすら溜息が出る。心地よく上手い芝居、良い演技……
俺もそろそろ劇場へ帰ろう。稽古場へ帰ろう。 そんな気持ちになって来た。 良い仕事がしたいと心から思う。
土曜の夜(2004.11.21)
お葬式から帰り、一気に疲れが出る。久しぶりの家での夕食をはさみ、ずっと眠り続けた。 そして12時頃、目が覚めて今……
大事業が終わったと思って、一度、どっとネジが緩んだのだけど、その後すぐに、急報を受けて緊張の極みに達し、また小倉を往復し、バタバタと今日まで来た。 カラダが悲鳴を上げているのだろう。 もちろん、こんなこと、彼の受けた苦しみに比べれば、なんでもないことなんだけど。
お葬式に、博多から、飛梅組メンバーも駆けつけてくれた。12時間、車を飛ばして来てくれたのだという。そして、マリンメッセの海岸に数十人、釜山でもリクソン君たちが集まって、出棺の時刻に合わせ、手足を叩いて響きを生み、歌を歌って、佐藤さんを天に送ってくれたという。 出棺の時刻、メッセの歌声を携帯電話から聞かせてもらう。 ありがたい、絆。 きっと魂が、玄界灘辺りの上空で急旋回して、博多や北九州、そして釜山を見ていただろう。
お葬式では、思いがけぬ人々と再会。 佐藤さんの仕事の多彩さと、上質さを改めて知る。各界の達人たち…… 出来れば、こんなことで会いたくはなかったけれど、それでも彼が引き合わせてくれたのだろう。 我々には何よりも人が宝だ。 これらの再会をまた、何かに繋げよう。
さて、明日は日曜日。 でも、やらなくちゃいけないことがアレコレ溜まりに溜まってしまった。 心は喪に服しつつも、少しづつ歩き出さなくてはならない。 もっと先へ行けよ。 この程度で、充足せずに、また次に進め。 たぶん、我々はそう彼に言われている。
お通夜(2004.11.20)
当然の事ながら、この一週間に起きたことに対しての言葉探しに明け暮れている。 この気持ち、割り切れぬ思い、後悔や憤りを言葉にすることはないと思いつつも、言葉にしなくては、歩き出せない気持ちでいるのだ。
今夜、通夜の席で、AUNの良平君が、私の気持ちをズバリ一言でまとめてくれた。 「音は消えない」
あの力強いビートを打っていた佐藤さんが集中治療室に横たわり、機械の力を借りて心臓の鼓動を継続させていた。 傍らにはパソコンの液晶があり、その中に、佐藤さんの瀕死のカラダが打ち出すビートが、一本の波形の線として映し出されている。 その何と頼りないこと。 大地を震わすようなビートを奏でていた人が、今、たった一本の線だけを微かに揺らすぼとの力しか余していなかったのだ。 そして訪れた、哀しみの瞬間。 それでも山と谷を描いていた鼓動の波形は、ただ一筋の直線となった。 ビートの人の鼓動も、呼吸も途絶えた。ビートが果てた、この世の終わり。 けれど、その中に、何とか希望は見いだせないのか。彼のすべてが本当に、哀しい一筋の線になってしまったのか。 言葉を探していた。この哀しみから、立ち上がり再び歩き始めるためのヒントが欲しくて。
こう考えた。まだ混沌とした中の、曖昧な考えだ。でも、ちょっと近づいた気がした。
彼の呼吸も鼓動も消えた。 けれど、彼がかつてドラムや太鼓を打ち鳴らし、この世の大気を震わせた、そのビートは今も、どこかで大気を震わせているんじゃないか。もはや我々の鼓膜が感知出来るほどの大きさこそ持たないけれど、粒子のレベルで、或いは原子のレベルで、その響きは今もこの世のどこかに伝わり続けているんじゃないか。彼が大気を震わせることで、この星の上に巻き起こした風は、未だ、どこかの海の上や、草原や、山のテッペンを吹き抜けているんじゃないだろうか。 そして、その微かな震えや、風音は、普段の我々には聞こえないけれど、心の耳をようく澄まして聞き入れば、今もこれからも、聞き取ることの出来るものなんじゃないだろうか。 少なくとも私は、その音に耳を澄ませたいと思う。そして、それを励ましの音として聞き続けたいと思う。それは私の命のある限り、可能であると信じたい。
そんなことを考えていた。 そしてそんなことを語った後、良平君が、佐藤さんと同じ太鼓打ちとして、このまとまりの悪い考えに、明確な言葉を与えてくれたのだ。
音は消えない、と。
佐藤さんの消えない音を聞き続けようと思う。
明日は告別式。 佐藤さんの寝顔はとても安らかで、優しい微笑みの顔だった。 集中治療室の顔が、あまりに苦しげだっただけに、少し安堵した。
木曜日、雨(2004.11.19)
起床後、支度して三軒茶屋へ。「華麗なる招待席」という番組のインタビュー録り。二十一世紀歌舞伎組について語る。山川静夫アナウンサーと対談形式で。 小糠雨。 華麗なる……という気分ではないんだけど、歌舞伎組も今、師匠を病いで欠き、それでも闘い続けなくてはならない苦境の最中だ。明るく希望を語ろうと思った。 (実は猿之助さんは、閉会式のその日、博多にいたらしい。病後初めての遠出であろう。開会式はテレビで見たよ、とメッセージも届いてた。見て、どうだったのか、その感想はなかったけど……) 歌舞伎通の山川さんとはケッコウ前から、とりあえずの面識だけはあったのだが、ゆっくり話したのはこれが始めて。収録とは別に歌舞伎うんちくのいくつかを雑談のうちに聞く。仕事は終わってるのに、極めて楽しげに、ずっと語り続けられる。歌舞伎が心から好きなんだと、しみじみ感じる。 収録後、しばし渋谷をブラブラと。 久しぶりの東京の街。 いつもなら確実に何か衝動買いしているところだけど、そんな気分にもならず。 いろいろ溜まった手紙など取りに事務所へ。これも一ト月半ぶりだ。 茅野もいた。 一緒に赤星から、その後の様子を聞き、また、小倉での出来事の一部始終を茅野に話す。ヤツもまた、眠れぬ夜を過ごしたはずである。 何しろ現場の演出家だからね。 明日、お通夜である。 私はその前に、シアターガイドの記事で、成井豊さんと対談。極めて久しぶりに演劇人らしい仕事である。 それを終えてから、通夜に行く予定。 今は、むしろ予定や用事のあることが、助かる感じ。
昨日、佐藤さんとさよならをした後、ひとり病院を出て、北九州空港にタクシーで向かった。 タクシーに乗って、少し遠回りを頼んだ。 小学生時代、しばらく住んでいた、霧が丘という辺りを通り抜けて貰う。 山の麓の住宅街だ。 今回小倉に2週間いて、その間は、そんな気持ちにはまったくならなかったんだけど、何か、そのまま空港に向かう気になれなかったのだ。 町並みはすっかり変わっているが、夕闇に浮かぶ足立山の稜線は記憶のままであった。 タクシーの運転手さんは女のおばさんだった。おばさんは私にひたすら感謝していた。 今日はまったく客が付かず、昼から初乗り一人分しか上がっていなかったのだという。 しかし、こういうものは焦って追ってもダメでね。パターンを変えずに、じっと待つしかないんですよね。でもそうして待つと、こんなふうに思わぬお客さんとも巡り会える。 そうだね、スタイルは貫かないとね。急に人真似したり、変えてみてもダメだよね。今まで創り上げてきたモノをね、信じて続けていかなきゃね。 そうやってガマンして、気が付くとね、ダメだと思った日でも、巻き返してて、いつの間にかいつものラインに届いてたりするんですよね。 ありがとうございます。 これでツキが戻りそうです。お客さん、福運持ってそうだから…… どうぞお気をつけて。いってらっしゃい。 北九州空港から羽田に向けて飛び立つ小さなジェット機は、小倉の上空で必ず一度、大きく急旋回し、東に進路を取り直す。窓側の席に座ると、斜めになりながら、小倉の町を一望に見下ろす瞬間がある。 足立山が見え、紫川が見え、新しい劇場が見えた。 それらのすぐ隣りに玄海灘の海も見えた。 町からは、まったく見えない海だ。潮の香りも、波音も聞いたこともない。 こんなに近くに海があったのかと、初めて気づいた。
佐藤一憲さんのこと(2004.11.18)
悲しいお知らせです。 いまだに、私もこの出来事を信じることが出来ません。でもこの目で見てきた事実です。 小倉の病院に入院していた佐藤さんの容態が昨日、突然急変し、今日の午後三時過ぎ、息を引き取られました。
月曜日の夕方、東京へ帰る前に病院に見舞いに行き、元気な姿を見たというのは先日の日記の通りです。 左足が痛かったのが、レントゲン検査の結果、骨折ではなく靱帯の損傷だと分かり、喜んでいました。カラダ全体にあった痛みも消えて、食欲も旺盛でした。一週間で東京に帰ると、明るく話していたのです。 腰椎に一カ所骨折はあるので当分起きあがることはできないけれど、幸い精密検査の結果でも脊髄への損傷はなく、後遺症の心配もなさそうだということでした。よって手術の必要もなく、そのままギプスをはめて、安静にしておくことが最前の治療という診断であったのです。 だから、すっかり安心して、私も東京に帰ったのです。
それが明けて火曜の昼、緊急連絡が入り、佐藤さんの容態が突然変化したと知らせを受けました。心肺停止になったと。そしてすでに、集中治療室に入っていると。 私はすぐに、帰ってきたばかりの小倉に飛びました。 佐藤さんは、すでにICUの中に横たわり、瞳孔も開いた状態でした。その急変以来、意識もなく、心臓の自拍もなくなったそうです。
この時点で、おそらくは絶望的であると、医師からの説明を受けました。 私に限らず、佐藤さんの元気な姿を見ていた人は大勢いたので、にわかには信じがたく、いったい何が起きてこんなことになったのか、医師への説明を求めました。
医師からの細かい説明は私がご家族の同意も得ずに、勝手にここに書くようなことではないと思うので書きません。 佐藤さんの容態の急変は、かなり急激なもので、心肺停止は医師と看護婦が見ている前で、起きたことだそうです。当然、緊急体勢で蘇生措置に入ったけれど、症状の進行に追いつかなかったようです。 その後、検査解剖の結果、直接の死因が分かりました。 肺血栓塞栓症 というものだそうです。 カラダのどこかに出来た血栓が、肺の動脈に突然飛んで、塞いでしまったのだそうです。 血栓は長時間、カラダを動かさずにいたりすると、出来る傾向のあるもので、新潟地震で車の中に寝泊まりしていた人の急死だとか、エコノミー症候群といわれているものと同じもののようです。 それにしても、どうしてと思う気持ちは強く、未だ私は、この出来事を受け入れかねてはいますが、さきほどさよならを告げて来た佐藤さんの手は、もはや冷たくなっておりました。その手を寂しく握り、私は一人東京へ帰ってきました。
佐藤さんは明日、東京に帰ってきます。
今、報告できるのはこれぐらいです。
あまりに突然のことで、心の整理が付いていません。やりきれなさと憤りをも感じております。 しかし今ここで私が冷静にならねばと思っています。 佐藤さんを今回の催しに誘い、福岡に連れて行ったのは、私ですから。私には大きな責任があります。 ただし、元気だった月曜の別れ際に佐藤さんは、私には何一つ恨み言も言わず、と言うか、ひたすらすまながって言っていました。 「迷惑をかけて申し訳ない。素人も大勢いる中で、玄人である自分が怪我して情けない」と。 もはや快復が見えていたから、笑いながらのことです。 確かに、腰椎の骨折は大怪我ですけど、笑って乗り越えられるはずだったのです。つい一昨日までは…… それがこのような事態になってしまったことに、他のスタッフたちも戸惑い、限りなく深い苦しみと後悔と責任を感じています。 何よりも大事な仲間を失ってしまった、哀しみははかりしれません。 なのでどうか、皆さんには、しばらくは静かに、この出来事と佐藤さんのご家族と、我々を見守って頂きたいと思います。 ただ一つ、今夜書き残しておきたいのは…… 今年の4月に『SAY YOU KIDS』で出会い、次に『百鬼丸』、『建築ショウ』そして『開会式・人生号』『閉会式・エターナリー』と、たった半年の間に彼とは5本の仕事をやったんだが、そのどれもが私の代表作といってもいいような、素晴らしい仕上がりであったことだ。 今回のことが絶対に起きてはならない事故を起こしてしまったとして、我々の仕事に辛い記録が残るのは仕方ないことだけど、彼と創り上げてきた作品たちに傷が残るようなことになるのは、哀しくてたまらない。 それは彼にとっても不幸だと思う。我々はいつも命がけでモノを創ってるんだから。何としてもその結晶である作品だけは守らなくては。 彼だって、きっとそう思っている、と信じる。
彼は素晴らしい芸術家であった。彼は我々にたくさんの喜びを与えてくれた。 彼と創った作品のすべてを私は一生大事にしたいと思う。 我々は大事な仲間を失ってしまった。 今はそれだけです。
祭りの終わり(2004.11.16)
東京に帰りました。パソコンもつなぎました。 羽田から、タクシーに乗って首都高、遠くに高輪辺りのビルの明かりが見えた時、ああ、東京だなあ、と思いました。で帰ってきたというよりも、なんか知らない街にやってきたような感じになった。 小倉よりも少し寒いかな。小雨がパラついています。 土曜の公開ゲネと夜のプレビュー、そして日曜の本番と。 アッという間に時が過ぎて、気が付けば、打ち上げの飲み屋にいた。 そんな感じです。 閉会式も、いろいろ語らなくちゃいけないことがあるんだがな。でも、まだ頭がボーッとして、上手く言葉にまとまりそうにない。 ただ一つ、プレビューのカーテンコールで、ビーダンスカンパニーのエース・志帆ちゃんが、草刈さんに花束とともに 「これからも時々、北九州に帰ってきて下さい。おかえりなさい」という言葉を贈った瞬間、 草刈さんの大きな瞳からこぼれ落ちた、涙。 私は大ホールの一階の後ろの方で見てたんだが、そこからでもはっきりとその輝きが見えた。今そこに生まれ落ちた宝石のように、キラッと一つ輝いた、その光。 それを見た時に、一気に涙がこみ上げてきた。 北九州入りしてから、何度か草刈さんの故郷への思いを聞いていたからね。 決して美しいぱかりではない、複雑な思い出の数々。 この街を捨てることによって、草刈さんは今の草刈正雄になった人なんだ。 でもその人のカラダには確かに故郷の言葉や、太鼓のリズムが刻み込まれていて、消えることはなかった。 そして、三十数年ぶりの帰郷。 それを暖かく迎える人々……
開会式のテーマは出会いで、人生号という船が出航してゆくイメージだった。閉会式は、故郷を捨てた若者が、故郷に帰り、自分の知らなかった故郷との再会ほ果たすドラマになった。 しかも限りなくリアルなドラマに。 だって今まさに、ここに帰ってきた来た人がいたのだもの。 もちろん閉会式も感無量でありました。でも、そちらは仕事の締めくくりで、実はかなり冷静に、全体を見渡していたからね。 本当に泣いたのは、プレビューのカーテンコールのあの一瞬だったんだ。 真実の時を見た、って気がする。 そういう意味で、国文祭とか、閉会式とか、そういう括りを越えて、スゴイ舞台でしたよ。 長い時間かけて泊クンを励ましたり、おだてたり、時には恫喝したりして、拉致して泊まりをホントに泊まらせたりして、脚本作りしてね。もう自分で全部やった方が早いんじゃないかと、思ったことも度々でしたがね、そうしてたら、こんなにスゴイものにはならなかったような気がする。 泊クンが最も苦しんで仕上げたシーンが、結果一番良かったし、茅野はそういう本に細かく拘って、地元のメンバーにも丁寧に演出をつけていた。彼らがお手軽な仕事感なしで、必死に取り組んでくれたから、作り物っぽさが消えて、真剣さが際だち、草刈さんの真実もより鮮明になったと思うな。
私はこの閉会式作品を誇りに思うよ。 ただ残念なお知らせが一つ。 開会式にも参加してくれた太鼓指導の佐藤一憲さんが、ゲネ前夜の稽古で暗転中にステージから落ちて、腰の骨を傷める大怪我をしてしまった。 幸い、今後の暮らしに大きく響くような後遺症は残らなそうだけど、今も小倉の病院に入院してる。 今朝もお見舞いに行って、かなり元気になった顔は見てきてけど、当分はじっと寝たまま安静にしてなきゃいけないみたい。 不慮の事故なんだが、遺憾の極みである。 佐藤さんの穴は、演劇タミーネーターの横山智佐が代役を引き受けてくれて、サクラ大戦で鍛えた助六太鼓の腕で見事に穴を埋めてくれ、本番は何とか凌げたけど、長く稽古に参加してくれてた佐藤さんはさぞ無念なことだろう。 一刻も早い回復を望んでやまない。 何より、ひとり、小倉に置いてこなくちゃいけなかった。それが可哀相だ。 本人は一週間で歩いてみせると元気なことは言ってたけど、今後のことをことを考えると、今は無理せずゆっくり休んだ方がいいもんな。
十一月 十日の日記(2004.11.10)
八幡から、とうとう最後の地、小倉に移ってきました。日曜まで他の芝居に出ていた、横山智佐さんも北九入りして、いよいよ本番体勢です。 とはいえ、現場はもうすっかり茅野イサムのものなので、私はひたすら見守るばかりです。一応、最後の日は閉会式式典というものがあるんだけど、何より大事なのは芝居の方で、式典は限りなくアッサリやれば良いと思っています。 にしても小倉に来て、劇場に行ったりして、いよいよ終わりだな、という実感が沸いてきた。 振り返ると長い日々でありました。開会式も本当に昨年のこと、って感じだ。 開会式と言えば、昨日、やっと、開会式の前にオンエアされた、飛梅組のドキュメンタリービデオを見た。五月からずっとNHKが撮り続けてたやつ。 これが実に良いものだった。 やらせ一切なしで、でもちゃんとドラマになってる。それも真実のドラマね。当事者の一人であることを忘れて見入ってしまった。そして我々はなかなか良い仕事をしたなあと改めて思ったよ。 オンエアされたのは、開会式の前までの二十五分モノで、今度、開会式の様子も入れた拡大版が放送されるらしい。九州と沖縄限定みたいだけどね。時間も倍ぐらいになるらしいから、かなり期待できると思う。全国放送じゃないのがとても残念だ。 今日はホテルでたまった原稿書きとかして、静かにしてる。 劇場は仕込みのさなか。 明日から、舞台稽古。 草刈さんが、三十数年ぶりの故郷で、極めてノリノリ。稽古も、稽古後の活動も、ご機嫌の絶好調である。 もう帰らないと決めて離れた、小倉なんだと仰っていたんだが、やっぱり故郷に来て嬉しいんだろうな。 『エターナリー』は故郷との再会のドラマなんだが、そんな草刈さんの姿こそが、ドラマそのものだと思えてくる。そして、泣けてくる。 きっと良い公演になる。 追伸 元・飛梅組に閉会式に集まって『人生号』を歌ってくれ、と指令が出てるという噂だけど、それは間違いです。閉会式では『人生号』は歌いません。ここでは別の歌が歌われます。 飛梅組のように、福岡の各地から集まった、参加者が必死に稽古して、開会式とは別の舞台を創り上げているのです。閉会式はその世界で完結します。 ただ飛梅組のみんなに是非見に来て欲しいと思っています。そして僕たちの祭りの終わりに参加して欲しいと。 終わりは始まり、それがキーワードです。 また新しい出会いをするために、終わるべきモノは終わる。消えて行くべきモノは消え、別れてゆくべきモノたちは別れてゆくのです。悲しいけど、その繰り返しが人生で、だからこそ素晴らしい。でしょ?
11月5日(4日深夜)の日記(2004.11.05)
山川くんが北九州入り。今日はいよいよ草刈さんもやって来る。すでに東京でみっちり稽古を積んでいて、何の心配もなく、八幡市民会館の大舞台で、歌に踊りに生き生きと励んでいる。特に、橋本(般若)茜とのコンビがとても良い。同じ一人の人間を、まったく違うタイプの二人が演じる仕掛けになっているのだが、まったく違っていながら、不思議に重なり合って見え、劇に深みを与えてくれる。良いキャスティングじゃないの。と自画自賛する。 稽古の後、山川姫熱烈歓迎の意味で黒崎という盛り場へ。作者の泊くんも参加して、茅野イサムが独自の嗅覚で発見した、抜群に魚の旨い居酒屋へ。実は昨夜も同じ場所に行ったのであるが、あまりに旨いので、二日続きの通いとなったのであった。 本日は特にカワハギとタチウオの刺身が美味しうございました。またあわびの肝も、絶品でありました。そうそう、あん肝の湯引きというのも、珍しい上に、美味しうございました。謙介は満腹でもう食べれません。 何か円谷選手の遺言みたいだけど、本当に本当に美味しいのである。円谷なんて言っても、若者は知らないね。まあ、何者か自分で調べておくれ。ちなみにこれは一時代前の演劇人には必須の、試験に良く出る単語である。 にしても尿酸値がヤバイというのにな、肝ばっか食ってなあ。 それはともかく、稽古が進行する一方、私は国文祭総合演出担当としての、雑用をあれこれと。閉会式式典の台本書きなど。開会式が終わったと思ったら、もう閉会式の支度にかからねばならないのである。 長い長い旅も、いよいよ終わりが近づいてきたな、としみじみ思うぞ。打ち上げの計画なんかも練られ始めてたりしてな。 そんで気が付くと、すっかり寒いんだ。先月博多入りした時は、まだ夏の名残があるような陽気で、半袖シャツだったもんだが、今やコートが必要になっている。何か不思議なからっ風がピープー吹き抜けていく、八幡の町に佇んでいるせいもあろうがな。にしても、冬服なんか持ってきてないので、今更ながら慌てている。 明日は山川クンと地元のテレビ出演で、ちょこっと小倉に出るので、思わずお買い物とかしちまうかもしれん。 追記 なぜか北九州文化賞ってのを貰うことになった。福岡県のためにはとりあえずいろいろやったけど、北九州のためにはまだなーんにもしてないのにね。この町のために長く働いてきた人たちに申し訳ない気持ちだ。まあ、これから働けということであろう。 ただ南区の病院にいる祖母には、とても良い知らせになった。誰よりも喜んでくれたおばあちゃん。ありがとう。 ところで副賞が出るという噂なんだが、どうなんだろうか。とりあえず五百万円ぐらい貰うつもりになっているんだが、そんな訳ねーじゃんと、一斉に突っ込まれた。 さてね。 田臥勇太がはじめて得点をゲットした夜であった。
11月2日の日記(2004.11.03)
怒濤の如く、開会式は過ぎていきました。今は博多の仮住まいを引き払い、閉会式の支度をすべく北九州にいます。 いつから日記が途絶えているのだろう。今のホテルもネット環境がないので、ホームページを覗けていません。とりあえず日記の原稿だけを書いて、赤星にアップして貰っています。 開会式のことはいろいろ書くべきことがあるんだけど、もはや何から書けばいいのか、話題がたくさんあり過ぎて分からなくなってる。感謝すべきことや、記録に残したいこともアレコレあんだけどな。 飛梅組はとてもがんばった。それを支えた扉座組もなかなか偉かった。韓国と中国も素晴らしかった。フィナーレは本当に、国境が消えてなくなり、すべてが一体となっていたよね。 実はこんだけ準備にかけてきたことが、ついに完成してしかも成功した瞬間、どれほど感動するんだろうと、自分自身かなり期待していたところはあった。しかし、現実的にはね、偉い人たちの挨拶が予定よりずっと延びててテレビの生放送に入り切らなくなりそうで、裏で関係者一同大慌てしていたり、カメラのフラッシュが焚かれてるとか、警察が動くので照明が揺れてるとか、上演の最中にもさまざま問題が起きていて、まったく舞台に集中できてなくて、正直なところ感動なんかは微塵もなく、やってる間中ひたすらハラハラし、諸問題が何とかクリアされ、何とか終わりまで辿り着いた時には、ただただホッとしただけなのだった。 それでも最後のフィナーレで、すべての人々が一つになって歌ってる姿を眺めてる時には、ジーンと来た。というか、ホッと息を付き、ああ美しい光景だな、と何だか他人事のようだけど、極めて客観的に心に滲みておりました。 まあ、こういうモノは、後からジワジワと主観的な喜びが来るのであろう。振り返って、我ながらよくやったよ、と思うんだろうな。今年の年末あたりかな。 評判はすこぶる良い。これが何より。今までの開会式ではダントツで一番というのは、これは特に驚くに値しない。今までのは論外だよ。少ない例外を除いてほとんどがハナなら人をナメきったような手抜きのものばかりで、比べられるのも迷惑だ。そんなことより、一つの見せ物として、スゴイよ、面白いよ。と大勢の人に言われた。これが嬉しい。或いは、本当に文化の出会いがあった、とかね。見せかけの交流じゃなくて、本当に異文化との融合が為されてることが素晴らしいと。 実際、南京の女の子たちや、ソウルのみんなにも、観光の時間を削らせて練習に縛り付けてしまったりしてね、気の毒だったけど、互いに納得出来るまで手間暇かけて仕上げた。その結果、彼らも、心から今回のことを面白がってくれた。みんな音楽や踊りを心から愛して、全身全霊で打ち込んでる芸術家の卵たちだから、そういうとこの本気のなり具合は見事だった。その素晴らしさに、また一層こちらも触発されて、成長する相乗効果みたいなね。未だかつて、国文祭の場で、ここまでやったのは我々が初めてなはずだ。我々はここで新しい文化を生んだんだ。それは間違いない。彼らもね、それを感じてくれた。だから、帰り際にたくさん手紙やメッセージをくれた。このショウは素晴らしいよ、って。
しかしな、どんなものにも文句を言いたい人はいるんだよね。そのいくつかはこの耳にも入ってきてた。やっかみ半分のイチャモンみたいなもんなんだけどね。本質をようく見ようとしないで、上辺だけで判断する人たちね。ふざけ過ぎだ、だとか、ただの氷川きよしショウじゃねえかとか。こんなの来賓には見せられません、とゲネを見て、どっかの省庁の若造が叫んだとか。中間管理公務員みたいな奴らがさ、問題にしようとしてたらしい。本当の氷川きよしショウを見たこともないのに、そんなことを分かったような口振りで言うんだな。よく見ろよ、こんだけ手間暇かけて創り上げてる飛梅組や南京、ソウルに失礼だぜ、って。はっきりと言い返してやろうと、私は心に決めて待ちかまえてましたよ。言われた時には、そう言い返して暴れてやろうと。 けれど皇太子殿下と平山郁夫画伯が、これは素晴らしいと、声を揃えて絶賛したというニュースが入った途端、雑音は見事に消え失せ、結果、どの方面からも文句を言いには来なかった。それどころか、ついさっきまで、眉間に皺寄せてこれは問題だ、なんてほざいてた木っ端役人が、手のひら返して、私もそう思いました、なんて言い出したそうな。 そんなに態度が変わるモノかと、そういうことに慣れてる県の人たちも呆れたらしい。 別にそういう人たちに誉められたかった訳でもないし、自慢したい訳でもないよ。むしろ波乱を起こすのが我々の役目だと自覚していたんだ。前例のない、大事件を起こしてやろうという野心で望んでた。 ただね、みんなもう少し自分の目で見て、自分の意見を持てよ、と言いたいよな。表現なんだから、いろんな感想が出てもいいじゃないか。みんながみんな面白がってくれなくたってケッコウなんだよ。 ただこっちは、ホントに長い時間かけて考え抜いて、チカラも全部出し尽くして、月並みだけど命賭けで創ってるんだ。だから何か言うにしたって、それなりの覚悟で言えよ、ってそれだけだ。ましてや、こんなのを見て、画伯がどう思われるか、だの、皇太子様が眉をひそめられるのではないか、だの、まったく余計なお世話なんだよ。 そんなこと心配してる前に、テメエの目でまず目の前のモノをちゃんと見つめてみろよ。なあ?(きらら浮世伝の勇助の気分であろう) 案の定、生むが安しでノープロブレムじゃねえか。それどころか、伺う範囲では、殿下も画伯も我々の意図を実に深く読みとって下さっておったぞ。当たり前なんだよ、知識も教養も豊かな方々なんだし、何より古今東西のいろんなモノをご覧になってる方なんだから。本物は分かるんだって。 たとえば、司会で出て貰ったあんみつ姫の とまとママ がさ、ついにオカマが宮様の前で踊るとか、お店でギャグにしてたけど、それだって間違いでね。皇室の皆さんは、中村歌右衛門とか何度も見てたりすんだよね。オカマの素晴らしい芸だって、すでにご堪能済みなんだよ。 ともあれ、うまくいって良かった。 たぶんメッセージもたくさん届いてるんだろうな。みんなお疲れさま、そしてありがとう。 一方で、閉会式ミュージカルも順調に進行中です。北九州組が良くがんばってる。開会式に負けない成功をおさめなくてはいかん。
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