2004年09月                             

あすから(2004.09.30)

 いよいよ福岡へ。途中、私は小帰りがあるけど、有馬は月末まで行ったきり。私とあと数人は、十一月の十五日の閉会式終了半ばまで行ったきりになる予定。
 まあ、アッと言う間でしょうがな。
 昨日は、台風の余波嵐の中、御茶ノ水で、春秋社の小島編集者と打ち合わせ。今年出すはずだった本のことで。でも来年の頭には出そうねと確認し合う。福岡ではその原稿直しもやることになりそう。
 分厚いゲラの束を持って一時帰宅。嵐の中を。しかし、今年は本物の台風に何度も遭ったから、こんなのはたいしたことはないのである。
 んで、帰宅してあたふたと荷造り。ダンボールで送る分だ。一ト月分の着替えと、いろんな資料や読みたいと本とかも入れたら、かなり重くなった。雨の中、決死の覚悟でコンビニまで抱えて行った。
 そんでそんで、その後、新宿に行く。タニヤンと六角の壱組印の公演を観に。
 芸達者たちの快適な絡み合い。
 何が、主人公の後悔なのかは、よくわかんなかったけど、目の前の現象を眺めているだけで、面白いから、それで良かろう。
 久しぶりに北村岳子さんを観た。遥か昔、魔女の宅急便という舞台で、魔法使いの女の子をやっていた。抜群に上手い、ミュージカル女優なんだ。
 しかし、今回はその上手さを敢えて隠して、クセ者のオバサン役を。でしゃばらず、地味すぎず、絶妙の存在感である。役者として、良い歳の取り方をしてるなあ、と嬉しくなった。オバサンなのに色っぽいしね。
 本当は終演後、皆と話したかったけど、その後に打ち合わせの予定あり。そのまま階下に降りて、トップスで衣裳の打ち合わせ。衣裳製作会社・ドルドルドラニのお嬢さんたちと。
 一つ一つはたいして高いものじゃないけど、何しろ数が半端じゃないので、たちまち総額が膨れ上がる。総出演者四百人以上なのだ。なので必死で金勘定せねばならぬ。
 結局、閉店まで、アレコレと。ティシャツのサンプルをテーブル一杯に広げたりして、たぶん迷惑千万な客であったことよ。
 芝居の余韻も、すっかり吹っ飛んで、六角に、疲れたから帰ると電話だけ入れて、則岡クンとラーメンを食って帰る。
 もうすぐ博多に行って、ラーメン続きになるだろうにね。何でラーメンなのかしら。それに今気づいた。
 あんまりクリエイティブではないことばかりの相談で、てか苦手なお金の問題で、何か、グッタリと疲れて、則岡クンに毒付いた。
 結局、なるようにしかならねえよな。
 いや、ボクは完璧を目指しますよ。死ぬときも前のめりに死にますよ。
 則さんは博多で死ぬ覚悟らしい。限りなく立派なスタッフである。にしても少し大げさじゃねえの。と思ったら、彼もこの日は一日朝から、有馬と四百人の人間のサバキをずっと考えていたのだと。
 特に素人劇団飛梅組の配役に頭を悩ましている様子。そうだね、それぞれ稽古スケジュールがバラバラの上に、技量もマチマチで、でもやっぱり、みんなにそれなりに活躍の場を上げたいしね。
 気が狂いそうですよ。でも、ボクは前のめりに狂いますよ。死にますよ。
 私ゃ、こんなことで死にたくないなあ、と思いつつ、雨の中、駅に向かった。
 もう九月も終わりだね。
 
 とにかく、現場行って何とかしよう。
 
 
 
 
  
 



慌ただしき日(2004.09.29)

 髪を切りに表参道へ。高橋さんのトゥシュドウボア。茅野も同じ日に来るという噂があったのだが、どうやら私が参上する噂を聞いたらしく、回避した模様である。
 まあ、美容院でまで彼と会いたくないので、それで良しである。
 高橋さんには一ト月後ぐらいに一番カッコよくなるように、とリクエスト。高橋さんの良いところは、切りたてよりも、切ってからしばらくしてからのフォルムがとても美しいことだ。

 髪を切った後、新宿の末広亭に。神田紅師匠の講談を聞きに。
 久しぶりの寄席である。
 ある意味、数十年時間が止まっている感じの空間である。以前は、落語が好きで、よく行っていたのだが、その時の感覚が鮮やかに蘇る。それはすなわち、変わっていないということであろう。実際、古い噺家さんの話なんか、マクラからまったく変わっていない。
 何でもかんでもがどんどん変わってゆく時代にあって、変わらないであり続けるというのは、凄いことではある。んがしかし、マクラまで変わってないというのはどうよ、とちょいと思ったね。
 だって未だに手紙がどうのこうの、なんてフリをしてるんだぜ。小学生まで携帯電話持ってる時代なんだよ。すべてメールで片の付く時代なんだぜ。手紙なんか書くのはマイノリティであろうぞ。
 それが江戸時代の噺ならば、それはそれで良いのだ。古典落語を聞きたいわけだからね。
 でも、今の時代はこうですが、その昔江戸時代では、みたいな展開の中に、手紙ネタはないだろう。今はメールで、ビョーンですが、その昔、江戸時代にはメールはなくて、飛脚というものが走り回って、なんて展開が正しい感覚だと思うのだがね。
 まあそれはいい。
 噺家さんに、私がダメ出しする由縁はないわな。
 でも敢えて偉そうに語るなら、紅さんの講談は、芸のチカラに満ちていて、異次元のものだった。丁寧に芸を追及しているということがよく分かる高座であった。適度に現代の話題もちりばめられていて、それが最新の感覚で行われている。紅さんは、今の時代に呼吸をしてるよね。そういう頼もしさがあったな。

 その紅さんと、開会式の打ち合わせ。紅さんは博多のご出身なのである。司会は紅さんしかいないと私は最初から決めていた。
 新宿はトップスにおいて、その会談は行われた。
 トップスといえば、六角が今、トップスで芝居してるんだよね。
 私はそれを明日見に行きます。
 いよいよ博多行きが迫る。明日のもう一つの仕事は荷造りだ。
 
 

 



引越し準備(2004.09.28)

 事務所で閉会式やら、開会式やらの打ち合わせ。合間に、チビ玉、嘉島典俊さんともお会いして、エターナリーについての打ち合わせ。
 基本的には、茅野イサムと台本の細部についての打ち合わせの予定だったのが、事務所に行くと、開会式の打ち合わせをノリさんと有馬がやっていて、結局、両方の仕事をした。
 しかし私だけが大変なのではなく、みんなヘロヘロ状態ではある。
 事務所に宅急便用のダンボールがあったので、一個貰ってきた。一ト月半分の着替えをそろそろ用意して、福岡に送らなきゃならない。
 ああいそがし。
 明日は神田紅さんと打ち合わせ。
 あと、髪を切る。
 



西太后(2004.09.25)

 紫さんの西太后を観に演舞場に。
 初演は普通のプロデュース公演だったのが、今回は女性は紫さんただ一人で、あとは全部歌舞伎様式の女形が演じるという特殊な公演になった。
 その仕上がりはすばらしいの一言。
 猿之助さんは相変わらず不在である。けれど、その演出の素晴らしさが、おもだか一門で固めた今回の公演は一際引き立つ。
 そしてその歌舞伎演出を完璧に体現して表現しつくす藤間紫という女優の凄さ。
 日本でただ一人、歌舞伎の演じられる女性が紫さんであるというのが、単なる宣伝文句ではなく、圧倒的な真実として目の前に展開される。まさに圧巻である。
 それと、誰にも理解されず、それでも闘うことを諦めず、修羅の道を突き進む稀代の女帝の姿が、猿之助という一家の大黒柱を欠きながらも、ただ一人、一門を背負って舞台を支え続ける紫さん本人の姿と重なってくる。その物語の壮絶さと切なさ。
 久しぶりに芝居を見て泣いた。
 終演後、楽屋に行って、紫さんにご挨拶。心から素晴らしいと感想をお伝えした。
 聞けば、猿之助さんもかなり回復されていて、演舞場にもいらしたとか。
 猿之助さんも会いたがってたわよ、と伝言あり。
 良いニュースを聞いた。
 猿之助さんから呼び出しがあるたびに、また大変な課題が出るのだと、憂鬱になっていたのが、いざまったくなくなると寂しいものである。
 大変でもいいから、また呼び出されたい、と思う。
 特に今日のような、凄い仕事を見せれた後は、それが自分の仕事ではない悔しさも半分でね。

 その後は開会式のスタッフが大集合してのミーティング。
 かなり濃密に。
 そして明日は閉会式のミーティング。10月1日から我々は福岡入りである。そして11月15日の閉会式の終わりまで、福岡滞在の予定。
 いよいよ、旅立ちの時である。

 
  
 
 
 
 



ドック(2004.09.22)

 二年目なので多少は余裕があったものの、やはりバリウムは苦手。
 自分で決めたこととはいえ、つらいお誕生日である。
 でも、結果は良かった。
 昨年、課題となった尿酸値もとりあえず悪化はなし。胃も肺もキレイなものである。
 どんどん落ちていた視力もなぜか今回は少し持ち直し。老眼が入ったからかもしれませんね、と指摘される。老眼かよ。
 ともあれ、何も出てこなくてほっとした。これでしばらくは仕事に没頭できる。
 
 昨日、今日と、開会式台本のまとめ直し。
 もしかしたら、遺作になるかもとか、昨夜は大げさに考えたりもした。
 先日博多で見た野外劇は、野村万之丞さんの遺作というか、正確には企画だけ遺作になったものである。ガンの告知を受けつつ、これだけは間に合わせたいと願っていたそうな。でもその願いは叶わず、六月に亡くなられた。
 ほとんど同世代なのである。
 早すぎるよね。
 でも、あり得ないことじゃないんだよな。
 人体展を見てから、特にそう思う。誰もが同じ仕組みで生きていて、いつかはこうして屍になるのだと。
 今日は、とりあえず当分は元気に働けるだろう、幸せを噛みしめるべき日であります。
 
 健康に感謝。
 イチローがまたたくさん打った日でもあった。



パソコンの(2004.09.20)

 パソコンの調子がまた悪くなって、しばらくつなぎにくかった。そんでまたしても、リセットに。
 例によっていろいろ消えた。
 書きたいことや、書き残すべきことがさまざまあった日々なのだけどね。
 一応、記録だけ残す。
 先週は北九州に行って、エタナリーの稽古。閉会式の音楽劇タイトルは 「エタナリー」になったのである。副題を 変わりゆく町の変わらぬ約束 という。
 一泊で慌てて帰って、たくさん打ち合わせ。
 そんで金曜日から、また福岡へ。
 金曜日は、北九州に行って、泊クンの「飛ぶ劇場」の新作を見た。その後、劇場近くの居酒屋 野球茶屋 にて飲み会。なかなか居心地の良い飲み屋で、我々の公演の時もたぶん行きつけになるであろうよ。
 この新作執筆時に、泊クンを東京に拉致して缶詰にしたりして、たぶん大幅にスケジュールを狂わせた。ので心配していたのだが、野心作が仕上がっていて安心。
 翌日からは博多。飛梅組の稽古。
 途中、マリンメッセをみなで見学。誰よりも私がしみじみその空間を見つめた。んで、いろいろ考えた。結果、稽古予定を変更して、思い付きをいくつか試すことになった。でも、見ておいて良かった。危うく間違ったプランで推し進めるところだった。
 一応、演劇の女神が、ヒントを囁きに来てくれたと思っている。しかと耳を傾けなくては。
 日曜も稽古。でも、その前に博多の太鼓連合の演奏会を視察。イベントに参加してくれる予定の人々。
 志免という田舎町へ。
 途中、ジョイフルという限りなく、看板がデニーズに似ている怪しいファミレスでちょい時間調整。私と赤星、音楽監督の長谷川氏と、太鼓家の佐藤氏、田舎町にまったく似合わない得体の知れぬオヤジ四人組である。案の定、健全なファミリーたちの憩いの場所、ジョイフルで浮きまくる。
 うるせえんだよ、ガキの泣き声、と吐き捨てるオヤジたち、みたいな。
 しかし、一方で、私たちが確実になくしてしまった、清く正しい生活を私はちょっと羨んだね。そういえば、世間は連休なのだと、その時、初めて気づいたのである。我々の、誰もそんなことに気づいてなかった。われ等中年四人組の誰にも、子供はなし。世間様に顔向け出来ぬ社会生活落伍者たちである。

 健全な暮らしといえば、今日は、開会式に参加してくれるカップルに会った。当日、本当に結婚するお二人というのを、舞台に上げてしまおうという企画である。
 企画は受けて、やろうやろうということになったものの、なかなか出演者がみつからなかったのが、ようやくゲット。
 消防士の新郎と、看護士の新婦である。きわめて清潔にして、清清しいお二人。
 もう我々とは明らかに住む世界が違う感じの、善良な市民生活の香りである。
 心が洗われ、このお二人のためにもしっかりやらねばと思った。
 開会式のテレビ中継の詳細も決まってきた。
 
 それやこれやで、多忙であります。
 明日は朝から、深夜劇場の撮り。扉座もやってくれた栗田芳宏氏と、もう一人は松尾貴史さん、栗田さんはまあ気楽に出来そうだけど、キッチュが緊張するな。しゃべりのプロだろ。蘊蓄王だし、何をどう聞けばいいんだろ。まあ、なるようにしかならんから、明日起きた時、考えよう。
 そんで明後日は、一年ぶりの人間ドックである。

 そういえば、飛梅組の人々が、私と有馬のために、お誕生日の歌を歌ってくれた。四十一の前厄と三の後厄の二人だがね。百三十人のハッピバースデー合唱はなかなかであった。
 
 あと、そんな多忙の中、間隙をぬって、人体の不思議展に行ってきた。
 解剖標本の展覧会ね。
 何もかも過剰にファンタジックにして、リアリスティックなのだけど、中でも心から感動したものがひとつ。
 全身の血管の標本。
 展覧会場の白茶けた明かりの中でも、ひときわ異彩を放って美しいのであるが、あれを舞台に置いて、ライティングしたいとしみじみ思った。
 そんで、そこに何か言葉を添えたい。ダンスもいいな。血管標本の前で踊られるダンスと、語られる詩、みたいな。
 誰が気づいてやっちゃうかもしれないけど。
 俺はすでに考えたという足跡をここに残しておこう。
 それほど、ステキなものであった。
 
 木の中で血は立ったまま眠っている。
 そう言ったのはテラヤマである。
 人体の中では、血は立ったまま、燃えていた。

 
 
 
 
 
 



また北九州へ(2004.09.11)

 明日は早朝から小倉へ。先週着陸できなかった北九州空港行きである。
 でもついに台風攻撃から逃れられそうだ。
 明日は閉会式でやる音楽劇の北九州選抜出演者の稽古をしに行く。
 開会式と閉会式、別の出し物を同時に作って行くのである。考えてみればかなり無謀な企画である。
 しかし、閉会式の方には、扉座が誇る新進気鋭の大劇場演出家・茅野イサムが張り付くことになっている。現場監督というか、実質指揮官である。
 台本をきっちりまとめて渡せば、イサムがなんとかしてくれるであろうよ。そんな訳で、明日は茅野も一緒に行く。
 前回の台風騒動の時の話題で書き漏らしたが、実は大阪に泊まった夜は、茅野イサムと久々にダーツ対決をしたのであった。そのために終電で新大阪に着いてから、わざわざ梅田のダーツバーに赴いたのでる。
 思い起こせば、四月の花見の辺りで、広井王子さんの会長室 (なぜか会社にダーツバーがあるのである)で手合わせした頃には、互いにヘボ投げで、好敵手という感じだってのである。
 しかし、この夜の茅野は、別人のように上達していた。一方、私は前回の福岡行きで、台風に見舞われた時、ホテルの近くに良いダーツバーを見つけて遊んだ折、親切なバーのダーツ兄さんに指導を受けて、明日のためにその①の感じでフォーム改造に取りかかって以来、混迷の時期を迎え、まったくサエなかった。それで完敗を喫したのである。
 それはまあいい。
 そのうち追いついて、負かしてやる。そういう明日のために、イチからやり直しているのである。
 けれど我慢ならなかったのは、その時の茅野の発言である。
 私のヘボぶりを見て、茅野が言ったのだ。
 うーん、今のレベルでは、たかシには勝てるけど、ケンタには負けるかもしれんなあ。
 実は、同じようなことを横山智佐にも言われたのだ。カウントアップという単純なアベレージを尋ねられた時だ。
 私が四百点になかなか届かないと正直にカムアウトしたところ、チーちゃんは心配そうに言ったのだった。
 ケンタにかなわないかもな。
 誰に負けるのが嫌だといって、ケンタほど負けたくない相手はいない。一度も一緒にやったことはないのだが、たぶん勝つとかなり自慢げな態度になるのだろう。見たこともない憎々しげな姿が、目に浮かぶようだ。
 茅野は脅す。
 憎たらしいスよ。心底ムカツキますよう。でも今の実力じゃ負けかねません。奴は、物怖じとかしないすからね。そんでケッコウ器用なんです。横内さんに勝ったら、あいつ、当分自慢して回るだろうな。あいつ調子に乗ると、あの下手くそ、消してやったぜ、ぐらいのこと言いかねませんからねえ。
 ダメだ、ケンタには負けたくない。
 ぜったいに負けたくない。
 ケンタは音楽劇チームに参加の予定である。
 そのうちに小倉辺りで、対戦しなくてはならない局面も迎えることであろう。
 しかし、威信に賭けて負けられない戦いがある。そう思うのである。
 私は今、見えないケンタの影に怯えている。

 

 

 
?!。
 
 



今日は(2004.09.09)

 朝から原稿書き。
 んでお昼過ぎに、早稲田大学の生協の冊子のインタビュー。早稲田の学生諸君が四名現れて、撮影と取材を受ける。こういうことは初めてなのでと、現れた大学生たち。なかなか初々しくて良かった。
 でも二時ぐらいしゃべり通し。テープ起こしが大変だろうなあ。
 昨日は研究生の授業だったのだが、この学生諸君は研究生よりも若かったりするのだ。もはや息子、娘の世代である。つい最近まで学生やってたような気分でいるのだけど、歳をとったぜ、とため息。
 歳のことで言えば、間もなく私のお誕生日、なのであるが、昨年から、お誕生日は式典等は一切廃し、静かに自分と向き合う、体内検査の日と決めたのである。で、すでに申し込み済み。人間ドックの検査一式が送られてきている。
 昨年、怯えながら受けたドックである。とにかく一年が瞬く間である。
 この秋はいろいろ大変なので、とにかく調べるのだ。
 この時期に変なことが判明したら、どうするのだという心配はまたあるが、そう言って逃げ回る有馬やカヤノとは違い、私は常に真実に向き合う覚悟があるということだ。
 誰か心ある人は是非、有馬やカヤノに、一度カラダを調べに行けと親身に言ってやってくれ。奴らの自虐的な放蕩を眺めて楽しむばかりじゃなくてナ。
 あと昨日は、万博で使う特殊照明器具の説明を某所で受けた。デモンストレーションを見せて貰いつつ。実はセイユーキッズで使ったことのある器具であった。けれど、私はその実力を理解していなかったと痛感。まあ、使いこなすには、それなりの支度が必要なこともようくわかり、あの時はそんな余裕もなかったのだなあと思った。
 簡単に言えば、映像がいろんなとこに自在に映し出せる装置である。ただ、照射距離に限りがあるのでメッセのような場所では無理なのだ。
 メッセではもっと強力な秘密兵器を使う予定である。
 たぶん演劇界ではまだ使った人がないんじゃないかしら。舞台監督からして、一回使ってみましょうやと、興味しんしんのものである。
 
 それらこれやで働く日々。
 明日はお昼が万博の打ち合わせで、夕方がラッキイ池田先生と開会式の振り付けの細かい打ち合わせ。
 にわかに時間が迫ってきている。
 
 
 
 
 
 



また台風(2004.09.07)

 昨日は怖かった。
 羽田から北九州に行くために乗った飛行機が、着陸態勢に入ったかな、と思ったら、突然機首を上げて上昇し始めた。やがて機長のアナウンス。
 「空港の目視が出来なかったので、着陸を中止しました」
 台風の雲がどどんと出現していて、低く厚く北九州を覆っていたのであった。
 んで、福岡上空を旋回することしばし、結局、狭いキタキューに降りるのは無理ってことになって、福岡空港に。
 その間、細かくグルグル回り続ける飛行機は、とても不気味であった。
 にしてもまたしても台風である。どうやら我々の動きはいい感じで、台風発生とシンクロしているらしい。
 博多駅に出て、新幹線を乗り継ぎ、予定を大幅に遅れて小倉へ。ようやく泊クンと台本の打ち合わせを始めた。
 でもその間も、着実に暴風雨は激しくなってゆく。これはまた帰らなくなるねえ、って気配が濃厚に。
 でも、私とカヤノは翌日、すなわち本日、外せない打ち合わせがあって、どうしても東京に帰らなくてはならなかった。で、ギリギリで立てた計画が、最終の新幹線で、とりあえず大阪まで行く、ということであった。
 赤星は、博多で仕事があるので、置き去りである。もちろん、またまた台風に苦しめられることは明白であり、寂しげな目で一人は嫌っ、と訴えていたが、見えないフリしてカヤノと二人、最終ののぞみ号を手配して、打ち合わせを終えて九時半の新大阪行きに飛び乗ったのであった。
 結果的には、これが正解。
 午前中の新幹線に乗って、追ってくる台風を振り切り、我々は無事に、今日東京に帰り着き、予定をこなせた。
 ただ、今朝は、大阪で、地震に起こされた。八時ごろに、ゆっさゆっさとホテルが揺れたのである。それもケッコウ長い時間だった。
 
 なんか、変だね、日本列島。
 実は今度の日曜も北九州に行かなきゃイカンのである。閉会式ミュージカルの地元出演者の稽古のためである。
 聞けば、次の台風が出来てるとか。
 三連チャンフィーバーなるか。
 それとも阿蘇山噴火とか?



豪雨(2004.09.05)

 すごい雨だった。夕刻ごろのこと。
 でも、ほとんどお店の中だったので、ニュースで知った。
 今日はお昼からずっと開会式の太鼓部分の打ち合わせ。韓国体育大学の姜先生がソウルから来てくださって、音楽監督とともに具体的なプランをお伝えする日だった。
 韓国太鼓と和太鼓を融合させて一つの世界を作ろうという計画なのだ。しかし実際に両者を引き合わせて練習する時間は一週間にも満たない。打ち合わせは、かなり綿密にやらなくてはならなかった。けれど、姜先生は、ご自身が韓国を代表する舞踊家であり、プロ中のプロである。打ち合わせは極めて円滑に進行し、夜は穏やかな宴席になった。
 雨はその間に降ったのである。
 一方、今日は和太鼓側で参加してくれる、双子太鼓デュオのAUNの二人とも会って打ち合わせをした。
 音楽監督の長谷川さんと、ソウルで姜先生の授業を見せて頂いた際に、これは大学生とは名ばかりのプロ以上にすごいパフォーマーたちであり、こんなのが来日する以上は、日本側も半端なものを出すわけにはイカン、絶対に何とかせねば。ということになった結果、彼らならば、その大役も成し遂げてくれるであろうということになり、出演交渉をしたのである。
 この夏、たまたまライブを見る機会があったのであるが、その時に見ていて良かった。
 
 元々は鬼太鼓座にいたという。その時、無一文で太鼓叩きつつ、アメリカをひたすらマラソンして一周するという、かなり無謀なことをやった人なのである。猿岩石とかがテレビの企画で無銭旅行をするずっと前である。アメリカ一回りに三年かかったという、一日の走行距離も六十キロだったとか。フルマラソン一回半を毎日走ったのである。野宿とかして、合間に太鼓叩きつつ。
 一見すると、二枚目のさわやかな青年たちなんだが、とんでもない経験をして来ているのだ。なによりすごいのは、そんなすごいことをやったようにゼンゼン見えないし、またそれを特に吹聴して回ったりもしていないところだ。
 マジ無一文で、ただ走ったんだぜ、アメリカ中を。
 呆れつつ、感心した。
 幸い、彼らも今回のショウに乗り気になってくれている。今後の楽しみが増えた。
 
 それやこれやで、本日は太鼓の日であった。
 その後は、姜先生を囲んでご馳走の夜であったが。
 ついでにいえば、先生は、大変な美人であり、また舞踊家らしく、スタイルが良い。私たちは密かに、韓国の由美かおる先生と呼んでいる。でも、韓国のオリンピック選手養成学校と言われるエリート大学で、最年少で教授職に就いておられる才媛でもあられる。
 私と赤星、あと音楽監督がソウルから帰って以来、何度もこの人のことを噂しているのを、ただ聞いているだけだった数名の人々が、今日は初めてお会いして、ナルホドと頷いた。
 こういう場合、期待が膨らみすぎて、落胆を引き起こす場合が多いのであるが、今回は噂に違わぬ驚きを巻き起こし、結果我々の勝利であった。ねっ、ねっ、ねっ状態であった。
 そして我々の間では、すっかり由美先生という名が定着したのである。

 昨日は、打ち合わせの合間を縫って阿佐ヶ谷に。ネコジとヘビジの芝居を見に。
 しかし前の打ち合わせが延びて、開演に十分遅れた。結果。一番前の席に案内されてしまった。
 たびたび、舞台上で汗だくで芝居をするヘビジとネコジと目が合ってしまう。
 とても気まずい。
 たぶん彼らもやりにくかったろうよ。
 何せ、私が最前列にいて、顔あげる度、おそらくはその視線の中に私の姿が映るのであるからな。
 こういう時に、一番前に座りたくないなあ、としみじみ思った。
 ところで、ヘビジとネコジって誰よ。
 詳しくは、たぶんキャバレーたかシに記述があったような気がする。
 明日は、事務所で衣装の打ち合わせ。
 
 



台風(2004.09.01)

 土日と博多。
 ラッキィ、えり夫妻や、長谷川大・音楽監督、それにハンズの菊池社長などが福岡女子大特設稽古場に初参加であった。
 練習は、本番まであと二ヶ月を迎えての、私の大演説に始まり、飛び梅組の歌と踊りの能力選定を中心に。百五十人をいろんなパートにキャスティングしていかなくちゃならんので大変なのだ。しかもそれぞれに仕事や役目とか持ってる人たちだからね。練習に明けられる時間もマチマチだし。
 なかなかのレベルの人もいるし、まったくの素人って人もいる。ま、それが面白さなワケで、それをどう使いこなして、傑作にするかが我々のテーマなんだ。
 土曜はスタッフも全員博多泊だったので、中州での飛び梅組大懇親会のあと、今後の作戦会議を長浜の屋台でゆっくり練ったのであった。
 んで私と赤星は月曜までいろいろやって、帰って来る予定が、台風十六号の直撃である。皆さんは慌てて帰ったのだが、私と赤星は結局帰ることが出来なくなって、博多に足止めされた。
 月曜日は嵐の中、博多を動いた。すごかったねえ、傘が五秒で複雑骨折したもんねえ。しかも人からお借りした傘だよ。(ごめんね、県庁のカミタマリさん)
 何か、ニュース映像になりそうな姿だったと思うぞ。この人たち、何でこんな時に外をフラフラ出歩いとんのやろ?って感じでな。看板飛んできて、頭に当たって死ぬんちゃうか、みたいな。
 それでも、今、博多の用事を一つ飛ばすと、大きく予定が遅れるからねえ、ええい、やってしまえと叫びつつ、スボンをビチャビチャにしつつすべての予定をこなしたのである。
 雨にも負けず、風にも負けずじゃ。

 そんで今日、ようやく帰ってきた。
 その足ですぐ、厚木市制五十周年のことで、市役所の人や文化会館の山崎さんとかと打ち合わせ。その後、嘉島典俊芸能生活二十五周年公演を見に国立劇場へ。かつてチビ玉!と呼ばれて一世風靡した大衆芸能の役者さん。閉会式音楽劇に出て貰うことになってる。すごい芸達者。
 でも、台風に苛められて、ヘロヘロになって帰って来た身に、芸能生活二十五周年の集大成の五時間の公演の直撃はヘビィであった。
 疲れ果て申した。

 しかし休むまもなく、明日は研究所の授業に、その後、ラジオCMの製作。
 それにしても、私は何屋よ?
 
 

 





build by HLimgdiary Ver.1.23